昭和42年7月28日 夜の御理解


 低ければ低く、高ければ高く、水の流るるに何の不足もあらず。高ければ高く、低ければ低く、水の流るるに何の不足もあらずという、所謂、水の生態、ね、水は低い所へ、低い所へと流れる。どちらに流れようがそこに不足、不平、水のような心でありたいと言うのである。だからそういう成り行きを尊ばせて頂くというようなあり方の中に、只、それだけではいけない。どうしてこのようなことか、と言うたら、信心が止まっておる。
 こうして神様が分からして下さる。どうしてが、こうしてという頂き方になってくるときに、本当のおかげが受けられる。ね。例えば自分の都合の悪いところへ水が流れてくる。それを黙って受けていくことは、有難いけどもどうして、こちらの方へ流れてきちゃならないところに流れてくるのだろう。そしてなら、ハァこうしてここんところを低うして、なんかとならんことを分からして下さるんだなぁーと言うことになってくる。
 実に何といいましょうかね、その受け方の内容に、目付けというかね、目付けというのは、この熱いまでの信心の意欲といったようなものが感じられるくらいに、なからなければ、そこんところが頂けないと思うです。もうどげんなったちゃよか、もうなるが、もう神様がお願いしとるけん、神様ええようにして下さるだろうというのじゃいかん。
 そんならそこのところを有難く受けて行かなければならん。同時に私どもではそのことが、例えばきつい場合もあり、苦しい場合ありゃ腹の立つことようなことすらがあるのである。だからどうしてこげなことになるのかと言うじゃなくてから、こうして神様が分からせて下さるんだという、そこんのところは、ね、熱情が必要なんである。ね。
 だんだんと信心をさせて頂いてから、こういう心の状態になればもう絶対におかげが頂けられる。私は初心の方にまあ皆に申しますことですけれども、親に喜んでもらいたい。親に孝行したいという心。しかもそれが止むに止まれん心でそれを思うということ、思い続ける。祈り続けれるということ。どうしたならば親が眞の喜び、眞のおかげを受けてくれるであろうかと、言うことのことが願われる。
 先日佐賀の多久に親先生のお伴して、私と若先生とそれから秋永先生と高橋さんの車で参りました時に、一年からと思うておったあの佐賀をぬけますと、小城羊羹で有名な小城というところがある。帰りにここであの羊羹のお土産を買わして頂いて、親先生におことずけしたいなとこう思うておった。さて帰りになってからもう小城が近づいてきたから、神様にそのことをお願いさせて頂いたら、どうでもお許しが頂かなかった。佐賀まで来てもお許しが頂けなかった。丁度、佐賀でお茶を一服頂いた。レストランがないわけでないから、そこの売場に小城羊羹のお土産が陳列してあった。改めてまた願いしてみたけれども、お許しを頂けなかった。
 そしたら自動車に乗り込ませて頂いたら、秋永先生が一足遅れて乗ってきてから、親先生これは一つでございますけれども、お土産にと言ってからあの小城羊羹を、親先生におことづけしておった。なるほどこれは私が私が買わせて頂くよりも、秋永先生がことずけた方が親先生が喜ぶだろう。子供からよりも、孫から貰った方が嬉しいのである。
 神様のご神意はこういうところに、あったんだなぁとこう思わして頂いたんですけれどもね。これは迂闊の親心、親孝行のつもりで買わせてもらいよるとです、ね。なるほど私、大坪行き届いた男じゃあるというて、喜んで下さろうけれどもね、それがそんなら秋永先生のおかげになっていかない。孫のおかげまでになっていかない。孫も有難い、私も有難い、親先生も有難いといったような、より有難いということろにならない。だから親孝行にも、なるほど眞の親孝行というのはやっぱりだから、そこんのところをですね、今朝からも頂くように、あの桂先生の生き方があるように「親に不孝し、神に孝行し、そして後に親に孝行する氏子がある。」そういう氏子にならなければいけないと仰る。
 親に孝行して、神に不孝し、親に結局は不孝する氏子があると仰る。これではつまらん。ですから又ここんところを間違ってから、その親に不孝することがある。神様に孝行すること。熱情もというものがなかったらこれも、いよいよ虻蜂取らずである。ね、ハァーこうもしてあげたい。ああもしてあげたいと思う親に、けどもそこんところをじっと耐えるだけでなくて、そこんところを神様に持っていく。ね。そこに私は、神様が喜んで下さるその神様のお喜びが、親孝行をさして頂くというおかげに繋がってなからなければ本当のおかげになってこない。
 今日、私、午後からテレビをちょっと見せて頂いた。ちょっとだったけれども、もう目が痛みだす。又、結局夕方までこう休んでおると一番ゆうであるから休ませて頂いて、おかげで痛みだけは止まったけれども、とにかく私は思う。信心をさせて頂く者はですね、もう、いつも言うならばあの蚊取線香なら蚊取線香に火が付いておる。その火が、信心の熱血、熱血、触れれば熱い、いったようなものがです、ね、どんな場合でもなからなければいけない。これは私いつも自分で思うんですけれども、これは寝ておろうが、どんな楽なおかげを頂いておる時であろうがです、いつも蚊取線香、蚊取線香に火が付いておるようにです、火を付けることだけやぁ、私は忘れちゃならん。いつも心の底に神様、金光様、そこからいつも煙が立ち上っておる。そしてその周囲の煩わしいものが落ちておるというくらいなおかげを受けなければいけない。
 先日も私、多久に参りました時に、もういよいよ午後の西日の頃でございましたから、実に、御結界がこうここが西のように、ここまで壁で、上がガラスである。薄いカーテンが晒のカーテンがひいてあるけれども、それを通してその暑さというものは、暑かろうかと私は思うてお広前にいっただけでも、カッーとしたんです。そいでもやっぱり紋付を着けれて奉仕をしておられる姿に触れた時にもう、本当にその熱いような信心の熱情に触れてですね、おかげを受けておられるあぁ、この教会はとこう思うのです。又座っておる先生もその中に汗を感じながら、その修行をなさっておられるというようなです、ああいう姿、ああいう心の状態がそんなら寝ておっても、頂けておらなければならないというところにです。
 一番始めに私が申しました、「低ければ低く、高ければ高く、水の流れに不足もあらず」いう坦々としたような信心。坦々としようておるようであって、その次には、ね、どうしてこのようなことがと言うことではなくて、こうして神様が分からして下さるんだと言う、こうしてと言うところがあって始めて、そこんのところが、所謂その水が有難い方へ、有難い方へしか流れこないようなおかげが頂けてくるようになるのである。
そこには一つの、やはりじっと堪える修行がいるのである。それは、ね、このことだけは、思う親孝行のことにですらです、それがあるということを分からしてもらわなければいけませんですね。
 水の流れに不足もあらずと言うて、その、親の例えば難儀なら難儀というものを、黙ってみておるというだけじゃいかん。それかというてそこでなでさすりするようなことも、おかげ。けども、それよりもっと有難いことは、それを神様にもっていってそれ以上の例えば修行でもさせてもろうということが神に孝行するということが、もっと大切である。そして後に親孝行させてもろうという、所謂、神様からさせてもろうという、そういうおかげが本当の信心をもっての親孝行である。
 信心を以てのおかげである。ね。一つ皆さん、どのような場合でも、それを坦々と受けていかれるという心境と、そしてそのことをです、又、こうして分からして下さるんだという一つの、信心の熱情と兼ね備えて、心の信心の内容としてもっておかげを頂いていくならばです、ね、今日は親孝行一つに絞りましたから本当に親に喜んでもらい、本当に喜んでもらえ、神様のご神意はここにあったのかと喜んでもらえるおかげ、そこには親も喜び、子供も喜び、孫も喜び、いや皆が喜べれるおかげが頂けてくるとこう思うんですね。どうぞ。